【ABSの思い出】  | 教育のチカラ

【ABSの思い出】 

 

辞めた会社のことを懐かしがるなんて、

自分も歳をとったなと思う。

 

私は当時(2000年〜2003年)

グロービスと競うくらいの気持ちで運営していたから、

今のABSの状況は寂しく思う。

 

年に2回、雑誌のダイムや日経新聞に開講の広告を出した。

コピーからレイアウトまで自分で考えてた。

 

海外で説明会やミニ講義を開いたり、

「真夜中の起業塾」と称してホテルのスイートでイベントをしたり。

各期200から250名の塾生と合宿旅行をしたこともあった。

 

私が入社した時は2つだったコアプログラムも、

最盛期には4つになって、2つは私がメイン講師を務めた。

大前さんの学校なのに、大前講義がないコースが2つあった。(笑)

 

ラジオ番組「五十嵐 健のラジオアタッカーズ」で

メインパーソナリティを務めたり、

仙台で企業の人材育成支援をしたり、

本当にいろんな経験をさせてもらった。

 

私は大前さんを尊敬していたけど、

他の社員とは違って彼を向いて仕事はしていなかった。

 

そもそもラッキーが重なってのABS責任者だったし、

マッキンゼー出身でもなかったのでしがらみもゼロ。

いつクビになってもそんなに大きな被害もないし、

そもそも当たって砕けろくらいの気持ちでやらないと、

賢い人たちの中に入って戦えなかった。

 

私を目の上のタンコブだと思っていた人もいたんじゃないかな。

 

大前グループの中で唯一の黒字がABS。

兄弟校の一新塾の赤字だって補填していた。

当時の血気盛んな私は、

「一新塾も年に2回開講したらどうだ?受講料もあげるべきだ」

「事業が赤字なのにマッキンゼー出身だからといって高給はおかしい」

なんて言っちゃってたから。。。(笑)

 

大人になった今なら、多分言わないことたくさん。。。

 

だからABSの受講生はもちろん、

ABSのスタッフを優先して喜ばせようとした。

海外に連れて行ったりもしたし、

兄弟校よりも給与を高くしたり。

 

私もマッキンゼー出身の人に負けないように

自分の報酬をあげようとしたり。

 

今振り返ってみると、「戦ってたな」って思う。

でも

それくらいやってたから、

学校教育の素人が、いきなり著名起業家を呼べたり、

自分が講師になる、なんてことができたんだろうな。